一力遼棋聖(名人、天元、本因坊)に井山裕太王座(碁聖、十段)が挑む第49期棋聖戦七番勝負第5局は、26日から千葉県勝浦市で打たれている。四冠と三冠による頂上決戦は、ここまで井山王座の3勝1敗で、カド番の一力棋聖にとっては正念場だ。この重要対局で新聞解説を務めるのは、芝野虎丸九段だ。昨年まで両対局者と七大タイトルを分け合う“3強”の一角だったが、棋士人生最悪とも言える経験を経て、「今年の自分には期待していいかも」と不敵に笑う。
- タイトル失冠と挑戦失敗が続き、気持ちが切れた
芝野九段にとって、昨年は「自分の中では一番悪い一年だった」という。名人と十段の二冠を保持していたが、4月に十段をフルセットの末、井山王座に奪われ、10月には一力棋聖に名人初 戴冠たいかん を許した。これらの防衛戦も含めて5棋戦で挑戦手合を戦い、「充実感はあった」というが、2年ぶりに無冠となった。「無冠になったのが大きすぎて、実際は思い出したくない」
3連覇に失敗した名人戦後、王座戦と天元戦の挑戦手合に、国際棋戦「春蘭杯」も出場が決まっていた。「最後の勝負を楽しもうという気持ちだった。全部負けたら、本当に棋士を辞めようと思っていた」。春蘭杯では自身初の国際棋戦ベスト4まで進んだ。しかし、タイトル挑戦はいずれも失敗し、気持ちが切れた。年末年始の約3週間、手合以外は碁盤から離れた。
- 「やりたい時にやればいい」…仲間と遊んだトランプで気が付いた
そんなどん底の状態から復調するきっかけとなったのは、今年の年明けに気心の知れた棋士仲間と遊んだトランプだったという。たわいない時間を過ごしながら、「遊ぶのはいつでもできるけど、辞めるのは、ここまで頑張った自分がかわいそう。もうちょっとやってあげようかな」と気持ちを持ち直した。2月に国際棋戦「農心杯」の対局が予定されていたことも幸いし、再び囲碁と向き合えるようになった。
一時は三冠を保持し、若くして碁界の先頭を走った。ただ、「タイトルを取りたいとか、世界戦で優勝したいという目標が、元々あまりない」。その後、一度は無冠となり、2022年に名人を奪還した際、「次に無冠になったら、棋士を辞めよう」とさえ考えていたという。
そんなモチベーションを保つのが難しいタイプながら、今も棋士を続けられるのは、「囲碁もやりたい時にやればいいという心の持ちように変われたから」と打ち明ける。この考え方は、名人を昨年失冠する以前にはなかったものだ。
- リターンマッチの十段戦「ただただ楽しみ」
以前から好きだというミュージシャン、米津玄師さんの曲「サンタマリア」には、〈全て正しいさ(中略)間違いさえも〉という一節がある。最近になって納得できるようになり、「何も正解じゃないし、何も不正解じゃない。囲碁を勉強していないことさえも、プラスの可能性がなくはない」と話す。
3月3日から始まる十段戦五番勝負では、挑戦者としてリターンマッチに臨む。「自分は以前までと違う状態なので、どういうふうに自分が戦うのかが、ただただ楽しみ」。そんな自然体の境地に達した25歳は「もう棋士を辞めたいとは思わないかな」とはにかんだ。
--From: 読売新聞(文化部 江口武志さん)